
明智光秀と聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか。
一般では長らく“世紀の叛臣人”として扱われてきました。
だが、最近ではそういったイメージも少し払拭されてきているようです。
そして、今回2020年の大河ドラマではどのように描かれるのか、非常に楽しみです。
稀代の革新家?
ウルトラドライな謀略家?
とても手厚く有能な“弱者の味方”?
光秀の真の姿にせまってまいりましょう。
謎の前半生
この時代の人物にはありがちな話ですが、光秀もその前半生ははっきりしたことはまだわかっておりません。
早いうちから足利将軍家の奉行衆?

ただ最近、松永久秀および三好三人衆らの手で時の将軍足利義輝を襲い弑殺した「永禄の変」前後の足利将軍家奉行衆に「明智」の姓が見える資料が見つかりました。
一部の学者らはこれを光秀とみなしています。
また、1566年明智光秀が今の滋賀県高島市の「高島城に籠城した」という記述が見つかり、話題を呼んでおります。
どうもその資料によると、光秀は医薬学にもたしなみがあった模様です。
この人はほかにも築城・鉄砲・連歌・茶道・民政・経済などなど、かなり多芸な人だったのですね。
美濃説

従来一般的に光秀の出身地の有力地と見られたのは美濃(岐阜県南部)可児市のあたり。
ここには「明智城(またの名を長山城)址」があり、光秀が号する土岐源氏系明智氏古来本貫のあった地。
『明智軍記(ただし、あまり正確な歴史資料とはみなされてません)』などではその跡取りとして生まれ、長良川の戦い(斎藤義龍が父斎藤道三に謀反し、圧勝。道三はここに戦死)のあおりを受けて斎藤義龍に攻められ、越前へ亡命したとされます。
説の信ぴょう性がどこまでかはまだはかりかねますが、家臣や縁者にはこの地域とゆかりのある人物がとても多いのは事実です(たとえば、斎藤道三の娘濃姫は光秀の親戚だといわれており、信長のもとにはせ参じた際にはその縁故があったともいわれております)。
(参考記事として、光秀の妻煕子について、と光秀にまつわるそのほかの女性について)
そのほかの説
また、
若狭の鉄砲鍛冶の息子(実際、光秀は鉄砲の名手として知られております)
という説や、
滋賀県犬上郡多賀町の佐目に2~3代前に流れてきた明智氏の末裔(実際、本能寺の変後このあたりの豪族阿閉氏、久徳氏、多賀氏、山崎氏などは光秀に味方しております)
という説もあります。
明智光秀の越前時代

足利義昭
正確な時期はわかりかねますが、光秀は足利義昭が越前朝倉のもとに身を寄せた永禄9年(1566年)ごろには彼もまた越前におり、義昭のそば近くに伺候するようになります。
越前朝倉家累代の本拠地は一乗谷(福井市城戸ノ内町)。
その山一つ隔てたところに東大味という集落があります。
そこは光秀が越前朝倉に仕えていたころ治めていた領地と伝承され、今も当地において彼は絶大な信奉を集めております。
東大味と明智光秀の時代を超えた篤い絆
越前時代より時が下り、明智光秀が織田軍幕僚に属していたころの話です。
天正元年(1573年)織田軍は長らく敵対し続けた朝倉家にとどめを刺すべく、越前へと大軍を持って乱入いたします。
この時、明智光秀は当地を気遣って現地の軍司令柴田勝家に安堵してくれるよう依頼。
勝家はその意をきっちり受け入れ、当地は奇跡的に戦災を免れました。
そのため、当地では以後今に至るまで400年以上もの間
「自分たちが活きているのはあけっつぁま(光秀)のおかげ」
として、いかな時代の差別にさらされようともかたくなにその信仰を守り続けました。
今、当地には「明智神社」が立ち、光秀を象った木彫りの像がおごそかに安置されております。
引用instagram
織田家入幕・功数々

明智光秀は将軍足利義昭を奉じての入洛におよびごしの朝倉家をだしぬいて当時勃興著しい織田信長に渡りをつけます。
光秀自身やがてその帷幕へ。
そして彼の本格的な活躍が始まってゆきます。
まず永禄11年(1568年)の上洛軍に参加。
翌年には三好三人衆が突如足利義昭奪還に京に乱入。
光秀はこの時の本圀寺合戦において一指揮官として不利の中奮戦したと伝わります。
その大功もあってでしょう。
光秀は、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)、丹羽長秀、村井貞勝らとともに信長から京の施政を任せられます。
元亀元年(1570年)の金ヶ崎の退き口(※)においては秀吉の奮戦が有名となっておりますが、光秀も池田勝正らと従軍し、活躍します。
(※)織田信長が盟友浅井家の許可を得ず、越前朝倉を攻めると、浅井家は朝倉との旧来のよしみから織田を裏切りその背後を突きます。信長は総退却を命じますが、朝倉方の反抗をしのぐため殿軍の決死の戦いです。
比叡山延暦寺焼き討ち

翌年には比叡山延暦寺焼き討ちの中心実行部隊として武功を挙げ、近江国志賀郡(叡山のふもとのあたり)に約5万石を拝領します。
なお、明智光秀と言えば、これまで延暦寺焼き討ちに対して慎重な姿勢だったと伝えられております。
が、実はこの時の光秀の情勢に関してちょっと物騒な資料が・・
「(延暦寺の所領である仰木にある勢力を)皆殺しにしたい」と書いた本人の書状。
私は最初見た時、「え!?」となりました。
が、この人についてさらに“最近の発見”をよくよく調べていくと、どうも“予想以上”だということが、あかるみになってきました。
この人は信長に勝るとも劣らぬかなりクールな現実主義者のようです。
一方で、このころから光秀は琵琶湖に面した下坂本の浜辺に水城坂本城の建造を始めます。
元亀4年(1573年)には信長に反旗を翻した足利幕府勢の依る今堅田に湖上から船団を率いて侵攻、陥落させます。
この人は水戦もいけるのですね。
明智光秀の陰と陽
比叡山の山領横領と足利義昭との絶縁
ではまず、陰。
明智光秀は比叡山の山領を横領した、と言われます。
とはいえ、そういった疑いは織田信長や足利義昭にもあるのですが。
ただ一説には、これが原因で足利義昭と絶縁した、とのこと。
従来なら、「足利義昭の人なりに見切りをつけた」と語られることが多かったのですが、これが事実なら、従来説をかなり覆すことになります。
配下への篤実な気配り
次に陽。
明智光秀という人物の魅力を語る上で欠かせないのが、配下への気配り。
たとえば、元亀3年(1573年)今堅田での合戦にて。
この戦は激戦だったようで、光秀方にも少なからぬ死傷者が出ます。
そして戦後間もなく、光秀は比叡山麓にある西教寺で先の合戦で亡くなった18名の供養米を寄進、その名状に列記(中間の名も記されております)。
今もこの寺にはその時の寄進状が大事に保管されております。
受けた恥辱には情け容赦なし

次に陰。
明智光秀は恨みに対する報復は苛烈です。
光秀らの活躍もあり、武田・足利などの動きは沈静化。
そして、天正3年(1575年)のこと。
ついに明智光秀は織田信長によって丹波方面攻略長の大任を任せられます。
光秀はこれを受け、まずは丹波に有力な根を張る波多野党を味方につけて連合。
(波多野党の長、波多野秀治について詳しくはこちらの記事)
なおも反攻の意思を示す丹波随一の豪族赤井直正を本城黒井城に囲い込んでしまいます。
(赤井直正について詳しくはこちらの記事)
が、年明けて突如異変。
波多野勢が裏切り、光秀方へと急襲。
これに黒井城方も呼応。
光秀は挟撃の絶体絶命からやっとの思いで坂本へと逃げ帰ります。
なんせ「1国平定をたった半年で成し遂げる大果報」を目の前で粉砕されただけでなく、この大失態。
大事な味方を散々犠牲にしたでしょうし、そもそもこの敗戦はその後しばらく続く光秀の“ケチの付き始め”なんですね。
天王寺砦では一向宗相手に苦戦しますし、その後ここで大陸の病でも貰ってしまったのか、自身それでまた生死をさまよいます。
何とか命はとりとめ、病状は回復しますが、それが伝染したのか、愛妻が病に落ち、忽ち亡くなってしまったと言われます(「兼見卿記」)。
この後、光秀による波多野勢への報復はまあ苛烈な様子が垣間見れます。
現地には「地獄」と何代にもわたって呼びならわされるほどの壮絶な侵略譚を持つ集落はいくつもあります(例えば「立ち地獄」、つまり人々が雄々しく反抗した末に、立ち往生した、という伝説を持つ集落があります)。
また、焼き討ちに合った集落や寺もたくさんあります。
従来、「キレたら怖い」は上司信長の真骨頂のように語られてきましたが、実は光秀もやはりそれに負けず劣らずの“何か”を持ちあわせていることを予感させます。
本能寺の変はただの偶然ではないでしょう。
やがて、長年したたかに反抗を続けていた波多野、赤井ら諸豪も光秀によって平定。
(明智光秀と波多野秀治による死闘が繰り広げられた八上城について詳しくはこちらの記事)
こうして、坂本に加え丹波一国を信長によって与えられ、統治を行ってゆきます。
大民政家明智光秀
次に陽。
先の東大味の話でもそうですが、この人は自領内への気配りが大変篤実。
しかも手腕が非常に有能です。
その大いなる遺徳をいまだもって根強く称揚し続けている坂本、亀岡(当時亀山)、福知山。
光秀は内政における得意は築城だけではありませんからね。
農業・商工業の産業育成に並外れた手腕を持っております。
その顕著な例を福知山から紹介しましょう。
ここは、今でも、ですが、由良川という大変な暴れ川が存在します。
が、光秀はここを大々的に治水するのですね。
地元としてはそれだけ農業取れ高が安定しますし、新規農地も開拓できます。
なお、光秀が植えさせたという河岸の竹藪“明智藪”は今も残り、地元の語り草となっております。
また、光秀はここ福知山で地子銭(じしせん。固定資産税)を免除。
商工人の誘致を積極的に行いました。
また、由良川の港を整備し、日本海方面からの物流の誘致も行いました。
今なお、福知山の盆を彩る福知山音頭では
「明智光秀 丹波をひろめ ひろめ丹波の 福知山♩」
と謳われているほどです。
引用instagram
でも、「不必要」とみなすとやっぱり容赦なし!
ただ、こんな福知山でもこういう伝承はきっちり残っております。
明智光秀は福知山城建造などのため、地元の寺社などから石材などを次々強奪。
彼らは丹波平定前、光秀に敵対したのでしょうか。
あるいは、光秀は明らかに経済に便の良い自由都市建設を目指していたようなので、あちらこちらで「中世的既得権益」を振りかざす彼らの存在が煙たかったのかもしれません。
まさに「聖域なき構造改革」。
織田信長の右腕たる由縁がしのばれます。
シビアさと篤実さの溢れる明智光秀軍法書

このように明智光秀は味方とみなした人間にはかなり手厚く誠実に相対する代わりに、ひとたび無用、あるいは敵とみなすとどこまでも容赦のないドライさがあります。
“飴と鞭”の徹底。
この辺に並外れた対集団の“厳しさ”を感じさせます。
なお、彼の性格を如実に物語るこういうものが残されております。
彼光秀自身が書いた軍法書です。
内容は知行高に応じた兵員としての用意や陣中での行いなどを事細かく明確に箇条書きで。
よく「光秀は几帳面」と言われますが、これを見ると、「本物だな」と実感します。
そして、特筆すべきはその文末。
「信長様は川原の砕石同然だった私をちゃんと拾い上げてくれたから、働き次第で君たちも必ず将来が開ける。がんばれよ」
という内容。
ちなみにこの発布からちょうど1年後、「本能寺の変」を迎えるのが歴史の皮肉です。
本能寺の変
明智光秀の動機
明智光秀による「本能寺の変の動機」は結局いまだわからずじまい。
歴史の好機の的であり続けております。
従来のエピソードのほとんどは後代の創作?
とりあえず、
◆織田信長が光秀の頭を寺の欄干に何度も頭を打ち付けた
◆光秀のお母さんが信長の勝手のせいで磔にされてしまった
◆宴席で下戸の光秀に、信長が槍の穂先を突き付け「酒を飲め」と強要した
◆家康の接待役に失敗した光秀の手配した料理を信長が堀に捨てさせた
などという、世間一般によく知られ、ドラマではいつも規定事実のように描かれるエピソードの数々は、いずれも出典が後代の創作によるものばかり。
今のところ考古学的見地からは“ほぼ裏付けなし”と言ってよい状況です。
ルイス・フロイスによると・・
ただ、事実をこと細かにつけていることで評判のルイス・フロイスの『大日本史』には
「光秀は信長に虐待を受けている、と民衆が噂している」
という主旨が記されているのは事実です。
長曾我部氏をめぐる動向

斎藤利三
また、最近は土佐長曾我部氏をめぐる動向も注目を集めております。
明智光秀の重臣斎藤利三は一族の女性を長曾我部元親の正室として嫁がせております。
つまり、彼女は長曾我部自慢の嫡男信親や大坂の陣で大活躍する盛親のお母さんにも当たる、ということです。
当然、この姻戚関係はそれまでの織田・長曾我部の同盟関係の超太いパイプになっていたことでしょう。
が、信長が突然これを反故にしだすのですね。
「どうも最近の長曾我部は強くなりすぎだ」
「うちの最近の同盟勢力でもある三好をこれ以上いじめるな」
という辺りが動機だと言われております。
何せ、本能寺の変が起こったまさにその時、織田軍は織田信孝・丹羽長秀を総大将に四国長曾我部征伐へと渡海寸前ですらありました。
これに対し、身内にとことん篤実な光秀。
しかも、自分の顔にも泥を塗られまくり・・
光秀の気質を考えると、そら「なめんな!」かもしれません。
新発見続々!
また、最近は「本能寺の変」に関して、こういった考古学的新発見が相次いでおります。
●上杉方のこもる魚津城に「味方になるよう」ほのめかすような手紙を送っていたり
●変直後、雑賀衆に「足利義昭を将軍として奉ずる」ことをにおわせる手紙を送っていたり
また近々に思いもかけないような新発見で歴史の教科書を大胆に塗り替えてしまうかもしれません。
~変前夜~“愛宕百韻”まだある注目の一句!
本能寺の変の直前、明智光秀が京の裏手にある愛宕山(あたごやま)に参詣し、そこで“ものすごく意味深な”句を詠んだ事はよく知られております。
まず発句(一番最初の句)。
「ときは今天(あめ)が下しる五月哉(さつきかな)」
ときを光秀が出自と自称している土岐を表す。
これは今まさに天下を狙わん、という光秀の意思表示だ、という説です。
最近はこれは後代の改鼠であり、本当は
「ときは今天が下なる五月哉」
で、“全然意思表明じゃないよ”という説も注目を集めております。
ともかく、この説についてのより詳細は、ここでは飛ばし、2句目が威徳院行祐(愛宕山西坊威徳院住職)による
「水上まさる庭の夏山」
3句目が里村紹巴(天下の連歌師、大名や朝廷など超幅広いコネクション・ネットワークを持つ)による
「花落つる池の流れをせきとめて」
これらは俺たち(朝廷勢力?)も応援するぞ!それいけドンドン!という意味で解釈されるとしてやはりスポットライトを浴びることが多かったのです。
が、私的に「見逃してほしくない」のがもう一句。
結句(一番最後の句)です。
詠んだのは光秀の嫡男十五郎。
当時の年齢は不詳です。
が、彼の登場について、ほかに目立った文献が乏しいことから「まだ初陣を果たせるかどうかの年頃だったのでは?(10代前半?)」と推測されます。
この愛宕百韻も十五郎にとって連歌のデビュー戦だったかもしれません。
実際、彼がここで詠ったのはただこの一句のみです。
で、その内容はこれ。
「国々は猶(なお)のどかなるころ」
あなたならどう読みますか。
私的には「あ、これ、もう(父が本能寺の変を起こすことを)知ってたかな」。
・・
変勃発と注目すべき光秀の行動
↑注意してください。今の本能寺は当時の本能寺とは場所が違います。当時の本能寺の場所は錦市場の裏手近くにある“本能寺跡”です。
“その時”、旧暦2日の未明(つまり、“月が出ていない”奇襲にはうってつけの日です)から明智光秀は大兵でもって織田信長の御座所・本能寺一点に集中攻撃を仕掛けました。
すぐ近くにあった織田信忠(信長の嫡男)のいる二条城は陥落後に完全に後回しにして、です。
もし、信長を倒しても信忠が生きていてはその後の自分にとって大きな脅威になることは疑いようもありません。
よほど信長という人物を倒したかったのでしょう。
織田信長最後のセリフの意味深
で、やっぱり気になります。
織田信長が“明智光秀の謀反と知って”放ったというあのセリフ。
「ぜひもなし(仕方がない)」
何が?
変後の明智光秀
あの人がやってくるまではそこそこうまくいっていた・・?
変後の明智光秀は“あの人”が神速で畿内に討ちいってくるまでは、そんなに失敗していたわけではありません。
確かに、光秀は大盟友の細川藤孝に絶縁を叩きつけられました。
その際、光秀の娘であり、藤孝の嫡男忠興の正室となった玉は忠興に離縁され、味土野の山奥に幽閉されてしまいました。
が、それ以外では、もう一人の大盟友筒井順慶は、申し訳程度ながら「光秀の近江遠征」に援軍をよこしてくれました。
また、山城、近江各地では武田元明(旧若狭武田氏当主)、京極高次(近江京極氏当主)、阿閉貞大、山崎片家、山崎長徳、井戸良弘などといった中小諸豪の味方を取り付けることに成功。
近江遠征軍も見事安土城を難なく陥落させております。
一方、京では戒厳を敷き、積極的に朝廷と折衝。
「“あの人”が返ってきた」と言う報が届くまで、朝廷は光秀にかなり好意的な姿勢を示したようです。
“相当な地位”すらちらつかせていたかもしれません。
そして、このまま順当にいけば、摂津諸豪の多くが味方に付いてくれることもありえたでしょう(かなり熱心なキリシタンである高山右近が、反キリシタン的な明智光秀にくみすることはなさそうですが・・)。
であれば、大阪湾付近に待機していた織田信孝・丹羽長秀軍が引き返し、「いざ決戦」となっても、楽にいなせた、かもしれません。
さらに、四国の長曾我部、紀伊の雑賀衆などと手を取りあい、もっと優位に光秀方の戦線を展開できたはず、でしょう。
が・・
劣勢にあっても身内の裏切りは出ず
いわゆる中国大返し。
羽柴秀吉の帰還です。
羽柴秀吉は織田信孝・丹羽長秀軍と合流。
しかも、中川清秀や高山右近などの摂津諸豪をことごとく味方につけます。
さらに先んじて、要地の天王山を黒田官兵衛に抑えさせ、それに対する光秀軍は味方としての到来を期待していた大和筒井軍にまで黙殺され、援軍を得られない状況。
あるいは、細川藤孝が味方をしてくれさえすれば、羽柴勢の後背を脅かすことも可能でした。
が、現実としてもはやいかんともできません。
兵数ではすでに羽柴方が明智方を優に倍しております。
京を守るにはこの喉のようにくびれた大山崎の地で迎え撃つしかありません。
無論、相手は烏合の衆。
「あるいは裏切りが・・」
という期待は淡くともあったはずです。
そんな絶望的状況の中、明智勢の見事なところは配下武将に一切の裏切りなし。
ここに明智光秀という人物の篤実のほどが偲ばれます。
(山崎の合戦について書いた私の小説はこちら)
明智光秀死す

敗戦後、光秀は後方にある勝竜寺城にこもり、なんとか立て直そうとします。
が、敵方に十重二十重に囲まれ、味方の卒の脱走は止まりません。
「もはや、抗しがたし」
として、光秀はごく少数の郎党とともに夜陰に乗じ脱走。
目指すは近江坂本。
そこで体勢を立て直し、もうひと戦、という算段。
でしたが、その途上、落ち武者狩りの手にかかります。
もはや力つきた光秀はそこで切腹して果て、首は介錯をした陪臣溝尾庄兵衛の手によって近くの藪の中に隠された、と言われます。
そしてほどなく、坂本も落城。
丹波も忽ち制圧されます。
この相次ぐ動乱の中で、ついに一族郎党の多くは壮烈な最期を遂げることとあいなりました。
ただ、彼の死後も、その遺徳を語り継ごうという意思は草の根レベルから少なからぬものがあり、現在へと至っております。
(明智光秀にまつわる旅をするなら、その近場にはいいところがいっぱいあります!ぜひセットで!→明智光秀観光をするならここも“寄り道”したい!その近場名所の数々 )