
(井上靖『幽鬼』にて「百足(むかで)」は波多野武者の旗印として描かれております)
丹波の諸豪はいずれも粒ぞろい。
中でも突出した勢力は黒井城の赤井直正と、八上城の波多野秀治(はだのひではる)です。
一度は丹波攻略担当にあたっていた明智光秀の軍を黒井城で破り、その後も山がちな地形を利用し、諸豪との連携を図り、したたかに抵抗を続けます。
今回はそんな波多野秀治と明智光秀の熾烈な戦いぶり。さらには波多野の有力家臣・同盟国人を紹介いたします。
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波多野氏とは
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(丸に出十字は波多野氏の家紋です)
俵藤太の後裔を称しております。
元の本貫は相模国波多野荘。
応仁の乱に、細川勝元に加勢。
その恩賞として丹波国多紀郡(今の兵庫県篠山市)を与えられました。
波多野稙通(たねみち)は山陰街道のすぐ脇を扼す八上城を築城し、首城となします。
その子晴通の代に松永久秀の手によって落城。
一時国を追われますが、秀治が取り戻します。
以後しばらく、隠然と勢力を示す形勢。
しかし、時代の新たな波は東から確かな音とともに迫っておりました。
明智光秀と波多野秀治
黒井城の戦い
天正3年(1575年)の暮れ、織田軍丹波攻略司令官明智光秀が氷上郡(今の兵庫県丹波市)にある赤井直正の本城黒井城を囲みました。
その時、明智軍の援助勢力として帯同していたのが波多野秀治。
ところが、年明けて突然、波多野勢が明智の軍へとおそいかかります。
城内の赤井勢もこれに忽ち呼応し、挟撃。
明智軍はたまらず撤退し、織田の脅威はこの地からいったん去りました。
(赤井直正について詳しくはこちらの記事で)
金山城
これに対し、織田軍の武力介入は執拗。
度重なる侵略に赤井・波多野両軍はじりじりと疲弊してゆきます。
ここで両陣営の明暗を大きく分けたひとつの城にスポットライトを当ててみましょう。
金山城(きんざんじょう)です。
といって、特にここから金が出たということは一度も聞きません。
ちょうど多紀郡と氷上郡の境目。
ここに“鐘が坂”というか細い峠道が通っているのですが、その多紀郡側すぐにある山が金山。
ちょうど両郡を見渡せる格好の位置にあります。
明智光秀はここの地勢に着目し、早速兵をわけて占拠。
要塞化いたします。
そして、すぐ隣にあった波多野方の“大山城”を奇襲でもって落とします。
こうして、多紀郡と氷上郡は分断。
明智方の優勢が確定的となります。
八上城落城
孤立無援となった八上城。
四方のうち一方向は山系に通じ、山頂からは大概のものを見下ろすことができます。
そして付近の小高いところには軒並み付け城が配され、連環鉄壁の守りです。
とはいえ、明智勢は近隣の城をしらみつぶしにし、八上城をはだか同然にしてゆきます。
さらに、八上城の周りに砦を新設し、逆に連環におしこめる態です。
そして、明智勢は無理攻めをせず、じっくり兵糧攻めにしぼりあげます。
が、付近にはこんな伝承があります。
八上城の裏手に曽地(そうじ)という村があるのですが、そこの寺々が城へと兵糧をひそかに運び入れていたというのです。
光秀はようやくそれに気づくと、ただちに寺々を焼き討ち、ついに城の防戦もいかんともしがたくなりました。
そこで、城方は和議を申し入れます。
代償として城主波多野秀治は弟秀尚とともに城を降り、明智軍の手で安土に護送されます。
そして、信長の命により処刑。
「よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ」
波多野秀治辞世の句とつたわります。
(八上城についての記事はこちら)
ほどなく長年抵抗をつづけた黒井城も陥落。
明智光秀長年の悲願であった丹波平定はこうしてほぼなしとげられました。
(明智光秀についてくわしくはこちら)
波多野秀治はクリスチャンだった?
「この説は結構な信憑性がある」と私は見ております。
というのも、ちょうど波多野秀治が当主だった時代付近で、波多野の家紋が
◇鳳凰にたて二両引き
から
◇丸に出十字
に変わっております。
しかも、彼の治めた一帯では「かくれきりしたん」の痕跡が多数残っており、全国有数のきりしたん信仰地域でありました。
周囲を見渡せば、播磨・摂津はよく知られた伝教地域であります。
たとえば、高山右近や黒田官兵衛、明石全澄などはキリシタンとして著名ですね。
東丹波でも八木には内藤如安がおります。
波多野秀治の有力家臣・同盟国人
荒木氏綱
細工所(井串)城主。
波多野家指折りの勇将です。
何度も明智軍を撃退したと伝えられ、波多野秀治の降伏によりついに氏綱も明智の軍門に降ります。
その際、光秀に配下に入るよう乞われますが、拒否。
替わりに嫡男の氏清を入れることといたしました。
波多野宗高・宗長父子
氷上郡氷上城に威勢を張る“西波多野”とよばれる波多野氏の支流です。
赤井・波多野本家と共闘しますが、宗高は越前の朝倉義景への救援に向かっている際に敵襲にあい、自刃。
その後を継いだのが息子の宗長。
彼もしぶとく織田方に抗戦を続けるものの、突如福知山から乱入してきた羽柴秀長の軍に手すきとなっていた氷上の本城をつかれ、ついに落城します。
八上城落城はこれよりほんの半月後のことです。