
下剋上と言えば戦国の習い。
丹波にもこうした完全実力主義でのしあがってきた一代の英傑がおります。
その名は赤井直正。
通称“悪右衛門”。
あの戦国の覇者織田の軍をもさんざんに苦しめたといういわくありげなその本領にふれてみましょう。
赤井直正の生い立ち
引用instagram
享禄2年(1529年)丹波氷上郡の有力国人赤井時家の次男として生を受けます。
赤井直正はおさないころからその“武勇豪胆”をしめすエピソードがいくつものこっております。
七歳で怪物退治?

まず赤井直正がわずか数え七歳の時、ある廃屋に怪物が出ると評判になります。
すると直正、深夜にそこに入り、怪物を一刀のもとに斬りふせてしまいます。
実はその正体、石仏の化身。
以来、直正は金塔の兜飾りをつけ、その武勇を誇りました。
また一説には怪物の正体は貂(てん)であり、それを毛皮にして赤井直正の宝となったともいいます。
ちなみに、赤井直正の“貂の皮”のエピソードをご存知でしょうか。
これは赤井直正伝説の中でもかなり有名なものなので、先に紹介します。
貂の皮

赤井直正の最晩年のころです。
赤井直正は病気を抱えており、深刻です。
そんな時織田方から降伏の使者がやってきます。
その重命を帯びたのはのちに維新まで続く大名家の始祖となる若武者脇坂泰治です。
赤井直正は脇坂の申し出を断ります。
が、たった一人で敵の本巣を尋ねたその胆力と潔さに感服。
直正は脇坂に大事な“貂の皮”を賞与してしまいます。
脇坂はこれを誉れと家宝にまでいたし、その栄えある代々に語り継がれてゆきました。
ただ、脇坂の語るこの武勇談自体は作り話ではないかと疑われております。
野武士の首領?

赤井直正は若いころ、地元「赤井十八人衆」という野武士グループの頭目になっていたといわれます。
下剋上
赤井直正は同族の黒井城主荻野家の養子に入っておりました。
ところが、直正はその当主荻野秋清を突然斬り殺し、黒井城を乗っ取ってしまいます。
その後も近隣にその武略で勢力を拡大。
丹波最大の豪族へと成長します。
いつ名乗りだしたか“悪右衛門”、また人は「丹波の赤鬼」と呼んで畏れました。
織田陣営だった

当初、東からの新興勢力織田家の覇権には従属の姿勢をとっておりました。
が、このころの丹波の時勢というのは実に目まぐるしいです。
というか、いつどこでも大勢力の間にある中小勢力というのは
「こちらにつくべきか」
はたまた
「あちらにつくべきか」
というとても深刻で微妙な立ち回りに四苦八苦します。
毛利と織田の板挟みになった摂津、和泉、播磨、丹後、但馬、因幡、吉備などの地域では漏れなくこういう難局に立たされております。
なんせ、あんまりあからさまに「あっち」というと、「こっち」側にいつどのようにボコられるかわかりませんし、かといって“やつら”は「おい、わかってるよな。ちゃんと行動で示せ」などと無茶なことを平然と要求してきます。
さて、赤井家は北隣但馬の山名家と敵対。
赤井方が要城のいくつかを攻め落とすと、山名はたまらず織田に援助を要請(山名もその時の都合で織田に付いたり、毛利に付いたり、と実に忙しない中小大名勢力です。節操のなさは素晴らしいですが、周囲の強豪のほとんどが滅んだのを尻目に、ここはきっちり旗本名家として維新を迎えております。)。
織田がこれに応じたため、赤井はやむなく織田と袂(たもと)を分かちます(中小はつらい・・)。
黒井城の戦い
そこで天正3年(1575年)10月、織田信長は丹波方面攻略将として虎の子の明智光秀を派遣してきます。
まず光秀は、多紀郡の有力豪族波多野秀治とは体よく和を結び、共同の大軍を興して赤井直正の首城黒井城を囲んでしまいます。
さしもの赤井直正の命運も尽きたかに思われました・・
が、年明けて事態は思わぬ方向に動きます。
波多野の軍が味方主軍のはずの明智勢へと急襲。
これに呼応して城内の赤井勢も早速出張って挟撃。
明智勢はこてんぱんに粉砕され、主将光秀ですら命からがらとなって本城坂本へと逃げ帰ります。
地元ではこの時、赤井と波多野でなんらかの密約がなされていた、とされ、“赤井の呼び込み軍法”として誉れ高く語り継がれ続けております(ほんまのとこどうなん?)。
織田勢の反攻
しかし、織田信長がこの程度であきらめる道理がありません。
再び明智光秀を主力として、しぶとくじわじわとひたせまってまいります。
やがて、さしもの“赤鬼”も病には勝てず天正6年(1578年)3月に死去。
傷の化膿ですが、直正は武者であり、連戦。
身にまとう武具で擦り切れ、傷はますます悪化の一途をたどり、ついにはその命をも奪ってしまいました。
丹波におけるこのレジェンドの死の影響はあまりに大きかったでしょう。
さらに、明智光秀は鐘が坂峠付近に金山城を築城。
多紀郡と氷上郡の数少ない連絡路を封鎖してしまいます。
多紀郡の波多野秀治、さらには氷上城の波多野宗長は織田方によって滅亡、または駆逐され、完全に孤立した中、天正7年8月赤井直正の跡を継いだ忠家の黒井城はついに陥落いたしました。
(このころの波多野氏の趨勢についてくわしくはこちらの記事で)
(明智光秀についてのまとめ記事はこちら)
赤井英和は赤井直正の末裔?
引用instagram(若い頃のお写真です)
ボクサーで俳優の赤井英和さんは赤井直正の直接の子孫ではありません。
が、その弟の幸家の子孫と言われます。
赤井幸家は黒井城落城の際に、赤井直正のまだ幼い遺児・直義を守り、落ち延びさせた人物です。
実際、赤井英和さんのお父さんは黒井城の隣町丹波篠山市の出身です。
黒井城界隈の観光

黒井城界隈と聞いてどうもほかにあまりピンと来ないのではないか、と思います。
でも、実は、歴史あり、うまいもんあり、でなかなか旅のし甲斐のあるところです。
まず黒井城当地のイベントについて。
ここでは毎年11月ごろ、黒井武者たちの偉跡を偲ぶ“黒井城祭り”が行われます。
人々が武者に扮し仮装行列などを行います。
また、すぐ近くの春日はあの春日局出身地として知られます。
そもそも黒井城陥落後、ここに入部したのは明智家の枢要軍参謀斎藤利三です。
春日局のお父さんですね。
また、農産物では大納言小豆・ナタマメなんかが有名です。
(明智光秀ゆかりの地を旅するなら、ここもぜひ→「明智光秀旅の絶好の寄り道スポット」)