【八上城】明智光秀vs波多野氏激闘の跡

歴史
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高城山遠景

2020年の大河ドラマの主役は明智光秀

必ずや、脚光を浴びるドラマ上重要な場所を紹介します。

八上城(やかみじょう)です。

おそらく、聞いたことがないんじゃないでしょうか。

そもそも丹波の戦国史自体世の中であまり知られておりません。

ただ、丹波は織田信長軍団の明智光秀と地元の諸豪が熾烈な和戦をくりひろげた地です。

丹波も結構広くて、京都と兵庫にまたがります。

兵庫側で明智光秀に立てつき、かなり苦しめ、激闘した2つの勢力。

波多野氏(はだのし)と赤井氏。

そのうちの波多野氏が主城にしたのが八上城です。

さて、ここで明智・波多野両陣営によるどんな合戦が繰り広げられたのか、どんな城か、興味がございませんか。

八上城の場所

今の兵庫県丹波篠山(たんばささやま)市にあります。

丹波篠山と言えば江戸時代初期にできた篠山城が有名です。

ですが、八上城はそれよりもっと町のはずれ、京都寄りにあります。

八上城のあった高城山のすぐ北麓には山陽方面と京都・山陰方面を結ぶ旧街道が走っております(↓春日神社前、十念寺前、ベーグルとパンNONOHANA前を通る細い道、昔ながらの街道街の風情が色濃く残っております)。

 

つまり、交通の要衝をいつでも扼せる絶好の位置です。

高城山頂から般若寺方面(光秀陣所跡)を見下ろす

そして、高城山の標高は460m。

登ってみるとわかりますが、結構息が上がります(※)。

(※)今のところ、山道の整備はほとんどなされておりません。なので、とちゅうに倒木あり、落石あり、道なき道あり、とかなり険しいです。今後大河に向けて整備されるかもしれません。なお、登山口はたくさんありますが、場所はとてもわかりにくいです。どうしても困ったら現地の人に尋ねてください。

↓登山口のうちの一つ。この神社の奥から入れます。

三方盆地に開け、一方山系を背にした絶妙の防御配置です。

山城は基本、四方すべて平地はまずいです。

というのも囲まれると補給ができません。

たとえば、三国志「街亭の戦い」では、馬謖がえらいことになってしまいました。

八上城は攻めにくかったのか

竪堀跡

基本、攻めにくかったと思います。

明智光秀はここを攻め始めてから落とすのに1年3カ月の時を要しております。

しかも、兵糧攻め。

「力攻めはむずかしい」

とふんだのでしょう。

さらにやっかいなのが八上城を中心として多くの諸豪が多くの城や砦をはりめぐらせておりました。

信州など山国の方ならわかるでしょうが、どうしてもそれらをひとつひとつ手なずけるか、落とすか、していかないといけません。

武田信玄ですら信州攻めにあれだけ時間をかけているんです。

明智光秀も丹波全土を平定するのに4年近くをかけております。

ただ、気になるのは、それ以前にこの城では、

攻・松永氏vs守・波多野氏(いわゆる久秀ら)

 

攻・波多野氏vs守・松永氏

の籠城戦に及び、その時もそれぞれに陥落しております。

まだ防備があまかったのでしょうか(後に秀治はこの城の防備を強化しました)。

それともやはり、“人は城”。

力攻めはしのげても、持久戦はたくさんの人の協力がないと成り立ちません。

周辺諸豪や近隣住民らの助けを得られなかったのか、あるいは内部で裏切りが出たのか。

そうなるとおのずと注目が集まるのは

●明智光秀を苦しめた城将波多野秀治の人物

●報復苛烈のあまり明智光秀から八上の地元人心が離れていったこと

です。

(波多野秀治について詳しい記事はこちら

明智光秀との八上城をめぐる戦い

高城山頂にある波多野秀治への石碑。
近代になってから毛利公によって寄進。波多野氏は尊皇に篤い家系でした。また、“自家に殉じた城・一族”という想いがあったのかもしれません

明智光秀が波多野氏と敵対する原因になったのは天正3年(1575年)冬から4年春にかけての黒井城の戦いです。

波多野氏はもともと明智光秀側として参戦。

しかし、突然黒井城の赤井直正方に寝返ります。

この時、明智光秀は命からがら坂本に逃げ帰り、そこから苛烈な報復と言っていい戦いが始まります。

(“丹波の赤鬼”赤井直正についてくわしくはこちらの記事で)

明智光秀は無理せず、着実に波多野方の諸城を攻略してゆきます。

そして、波多野氏と赤井氏などとの連絡も断ち切ります。

こうして、八上城をまるはだかにして、しかも兵糧攻めという慎重を期しました。

ところがいつまで経っても落ちない。

「なぜだ・・」

八上城のいわゆる一方山系の奥に曽地(そうじ)という村があります。

実は、そこにある寺がひそかに兵糧を八上城に運び入れていたのです。

明智方はこれを知ると、ただちにここを焼き討ちに。

曽地の曽はもと僧だったといいます。

つまり、その地名はこの時の焼き討ちに由来していると伝えられます。

↓曽地はここ以外にも曽地中、曽地口もあり、広いです。

曽地の集落

八上城落城後

磔松跡
(伝承では、明智光秀は波多野氏開城と交換条件に自分の母を人質に出しました。ただ、織田信長は波多野秀治・秀尚兄弟を殺害におよび、それに激怒した八上城側は光秀の母をここで磔に処しました。ただ、何度も言いますが、それはあくまで“伝承”です。考古学裏付けはありません。)


城主波多野秀治はついにたまらず降伏し(※)、安土へと送られ磔にされます。

(※)城内の者らが波多野秀治らに「開城を迫った」という説もあります。当時全国で、その手の話はしょっちゅうですし。私は、「あるな」と思っております。

 

秀治は一度織田を裏切り、しかもその時に軍団長明智光秀を討ち果たしかけました。

まして、織田信長のスタンスを考えると、“許す”という選択肢はかなり考えにくいものでしょう。

八上城落城後、明智光秀はここに重臣の明智光忠を入れます。

そして、光秀はもはや強敵のいなくなった丹波を瞬く間に平定。

また、余勢を駆るように盟友細川藤孝の丹後戦線に援軍し、忽ちこちらも鎮定してしまいます。

大いに面目を躍如した明智光秀。

ですが、本能寺の変を起こし、その後の舵取りに失敗、滅亡。

やがて、時代は下って江戸初期に入り、八上城には松平康重が入部してきます。

康重は豊臣氏の根拠地大坂への抑えとして篠山城を築城。

このため、ついに八上城は役割を果たし、廃城となりました。

ただ、今でも地元民の間では“歴史に名高い明智光秀を苦しめた城”として親しまれ続けております。

すり鉢を伏せたような形は篠山の大概どこからでもよく目につきます。

 

 

(明智光秀について詳しくはこちらの記事

(明智光秀ゆかりの地を旅をするならここもいいですよ!→明智光秀旅の近場絶好寄り道スポット

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