明智光秀の愛妻煕子~あれ?実物は私たちの思ってるのとちょっとちがうかも?~

歴史
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2020年の大河ドラマの主役は明智光秀。

すると、まちがいなく重要な配役となる明智家の女性たち。

あなたは彼女らのことをどれほど知っておりますか。

娘である細川ガラシャ。

妻である煕子(ひろこ。ただ本当に正しい名前はわかっておりません)。

そして、ガラシャのお姉さんになる倫(彼女も本当に正しい名はわかっておりません)。

光秀の妹であり、信長の側室だったのではないかと言われる謎の女性もおります。

今回はその中でも妻・煕子

彼女の謎のベールに包まれた人生を紹介しましょう。

(引用instagram)

明智光秀の妻、煕子

煕子の実家妻木氏とは

明智光秀の妻、現在おおかた“煕子”という名で通っている女性は妻木氏の娘であるという説が有力です。

妻木氏は美濃源氏の名門土岐氏の流れをくみます。

岐阜県南部に拠っておりました。

基本、明智光秀の身辺には岐阜県とゆかりの者が多く、彼の生い立ちがこのあたりだったのではないかとする説を裏付けるのに、力強い根拠である、と私は考えております。

かといって「岐阜県で決まり」とするにはまだ早すぎるでしょう。

煕子について語られるエピソードのほとんどは・・

話を戻しましょう。

煕子と見られる女性はいろんなエピソードが巷(ちまた)で語られております。

しかし、本当のところ、その多くが彼女らの生きたよりずっと後代の物語などで書かれたもの。

信憑性自体は乏しいです。

たとえば、有名な話はこちら

●「煕子の黒髪」……まだ光秀が貧乏だったころ、光秀は「汁講(しるこう※)」をふるまうお金がない、と困っておりました。そんな時、煕子は自分の黒髪をバッサリ切って売り、光秀に汁講を開かせる費用としました。

(※)みんなにご飯を持ってこさせ、主人は彼らに“お汁”をふるまいます。そして語らったり、ワイワイしたりする一種のパーティ・サロンです

●「疱瘡(ほうそう。あばた)の煕子」……煕子は光秀と結婚することになりました。ところが、煕子は天然痘にかかり顔に疱瘡が残ってしまいました。煕子のお父さんは「これでは光秀に嫁入りさせられない」と、替わりに煕子の妹を光秀に嫁がせました。ところがその初夜、光秀は「彼女は本物の婚約者じゃない」とすぐに見ぬきます。光秀は「私は煕子と結婚したいのだ」と、妹を実家に帰し、煕子と結婚することにし、二人は手を取り合って戦国に出世をしてゆきます。

こうして、煕子と光秀と言えば戦国を代表する“おしどり夫婦”としてとても知られておりました。

あの松尾芭蕉が

月さびよ 明智が妻の 咄(はな)しせん

と句に詠みあげるほどに煕子の光秀への献身ぶりを絶賛しました。

ただ、煕子と光秀がそれぞれに病気になった時、たがいに祈祷をしたり、看病をした、とこの二人の生きているころの公家の日記などに実際に書かれております。

なので、「上に書いたエピソードがまるっきりのウソか」とも言い切れません。

私たちよりははるかに光秀らの時代に間近のことです。

私たちの知らない情報はいろいろとあったのかもしれません。

光秀の下積み時代をともにする

煕子は明智光秀や彼らの娘の年齢から考えて、光秀が世に出る前の苦労時代をかなり長く共にした可能性が高いです。

光秀はなにせ「瓦礫のようなところから信長様にひきたててもらった」と、自分で書いております。

これはほかの明智の女性たちと比べてみるとちがいがなかなか鮮明になります。

煕子の興味深い一面

そして、煕子に見られるちょっと気になるデータが公家の吉田兼見との関係ですね。

当時、戦国時代の女性となると、そう自由はきかないはずなのですが、結構兼見に会いに行ったりしてますね(『兼見卿記』より)。

兼見も彼女のことを時折ちょこちょこと書いております。

従来のドラマや映画で煕子といえば、「ちょっと影があっておとなしめの女性」と語られる場合が非常に多かったです。

たとえば、こちらがこれまでに煕子を演じた人々の名です。

国盗り物語(1973年、NHK大河ドラマ、演:中野良子)

太閤記(1987年、TBS、演:二宮さよ子)

戦国乱世の暴れん坊齋藤道三怒涛の天下取り(1991年、テレビ朝日、演:今井里美)

秀吉(1996年、NHK大河ドラマ、演:有森也実)

国盗り物語(2005年、テレビ東京・新春ワイド時代劇、演:酒井法子)

功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ、演:烏丸せつこ)

明智光秀~神に愛されなかった男(2007年、フジテレビ、演:長澤まさみ)

引用wikipedia

確かにそれはそれで非常に魅力的なのですが、実際は私たちが思っているよりなかなかアクティブで外交的な女性だったのかもしれません。

また、織田信長の側室として活躍した御ツマキ(きっと明智家との仲をいろいろと取り持っていたでしょう。光秀は彼女の死に大変ショックを受けたようです。その1年後本能寺の変が起こります)は煕子の妹の可能性があります。

彼女の実家妻木氏というのは一家一丸のかなりの“しっかり者家系”だった気もしなくはありません。

煕子の死亡時期

煕子が亡くなった時期には2つの説があります。

天正4年説

ひとつは天正4年11月7日。

このころ、光秀にとっては試練の時期でした。

丹波では“黒井城の戦い”で味方の波多野秀治が裏切り、おかげでコテンパンにやられて命すら危うくなりました。

“天王寺砦の戦い”では石山本願寺勢に重囲され絶体絶命におちいります。

織田信長自身の果敢な援護でなんとか虎口を脱しますが、今度は坂本に帰り病魔にかなり苦しみます。

なんとか、体は持ち直しますが、この時看病をしてくれた煕子がそのあまりの疲れに間もなく亡くなった、という比較的信憑性のある記述があります。

天正10年説

もう一つの説は光秀が“山崎の戦い”に敗れ、亡くなったとされてすぐのころです。

明智家は近江坂本城に追い込まれ、煕子もこの時亡くなったと言われます。

まとめ

今語り継がれる煕子にまつわるエピソードのほとんどは信憑性があまりない

本当の煕子は結構アクティブ女性だったかもしれない

煕子は光秀の苦労時代を長くともにした可能性が高い

煕子と光秀の仲はやはり愛が深かったのでは、とうかがわせるエピソードが残っている

煕子の死亡時期には2つの説がある

(光秀について詳しくはこちらの記事

(煕子以外の、光秀にまつわる女性についてはこちらの記事

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