
2020年大河ドラマの主役は明智光秀。
すると、まちがいなく重要な配役となる明智家の女性たち。
あなたは彼女らのことをどれほど知っておりますか。
娘である明智玉(のちの細川ガラシャです)。
ガラシャのお姉さんの倫(彼女の本当に正しい名はわかっておりません)。
光秀の妹であり、信長の側室だったのではないかと言われる謎の女性もおります。
彼女らのそれぞれの激動に人生について、「本能寺の変まで」「本能寺の変後」で見てみましょう。
(明智光秀の妻煕子についてはこちらの記事でくわしくまとめております。)
本能寺の変まで
明智玉

一般的に細川ガラシャとしてしられております。
本名“玉”あるいは“珠”。
彼女は戦国を代表する本当に“玉”のような美人として今にいたるまで語り継がれるようになります。
まず、玉がどういう生い立ちだったのか。
気になりますよね。
そこで彼女の生まれた年から探りましょう。
1563年。
つまり、父明智光秀が織田信長に仕えるよりも5年前です。
明智光秀の前半生はくわしいことはわかっておりません。
ただ、自分で「瓦や石つぶてのところから信長様に召し抱えられた」と書き記しているので、やはり世間でよく言われるように、相応の苦労していた、と見るのがおおむね妥当でしょう。
当時の光秀が何をやっていたのか、今有力なのはこれらの説
・足利家の下士官であった
・朝倉家の家来だった
・越前丸岡で寺子屋を開いていた
そして、やっと織田家に仕えてからの光秀は家を空けて、戦に次ぐ戦。
下に書いた合戦で光秀は何度となく戦死しかけております。
また、光秀はこれらとともに著しい軍功を挙げ、出世街道を驀進(ばくしん)。
一連の流れを玉の成長とリンクさせていきましょう。
()内は玉の年齢
1568年(5才)朝倉支配の越前から出て織田家に仕官。信長、足利義昭を奉じ上洛戦。
1569年(6才)本圀寺合戦(三好三人衆に攻められ窮地に陥るも何とか守り切る。光秀も従軍し、活躍)
1570年(7才)金ヶ崎の退き口(越前朝倉に侵攻した織田・徳川連合軍だったが、突如盟友浅井長政の裏切りを受け、決死の退却を決行する。明智光秀はこの時、池田勝正、羽柴秀吉らと殿軍を請け負う)
1571年(8才)坂本城築城(比叡山のふもとにある水城。明智光秀の根拠地となる)
1575年(12才)黒井城の戦い(丹波の赤井直正を攻めるも、光秀は友軍の波多野秀治に裏切られ、絶体絶命に陥る。その後も丹波戦線では苦戦が続く)
天王寺砦の戦い(石山本願寺の大軍に囲まれ、絶体絶命に。が、援軍に駆け付けた織田信長が果断の用兵で救出)
光秀重病におちいる。その妻(玉の母?)も続き、亡くなる?
1578年(15才)玉、細川忠興と結婚
玉の結婚相手は細川忠興。
父明智光秀と忠興の父幽斎は同じ織田配下盟友の関係です。
少なくとも光秀の越前時代(信長に仕える直前)には同じ職場で働いておりました。
光秀が“足利将軍の家来”だったならもうかなり長い関係(※)です。
(※)細川幽斎はもともと足利家の重臣です。足利将軍義晴の落としダネではないかと言う説があるくらいです。
おたがい学問・文化への造詣はとても深いです。
そんな大仲良しの家に嫁入り。
ただ、忘れてほしくないのは玉の結婚の同じ年、お姉さん倫の嫁ぎ先荒木村重が織田信長に謀反を起こし、倫は明智家に送り返されております。
明智倫
玉のお姉さんです。
正式な生年月日はわかりません。
しかし、彼女の玉との大きなちがいはなんといっても、父明智光秀の下積み時代をかなり長くともにしたであろう、ということです。
しかも、玉よりいくぶん年上という情操。
父・光秀の度重なる出征や順調な立身をどのように見ていたでしょうか。
そして倫にとって大きかったのはやはり、荒木家との離縁です。
倫の新郎荒木村次は荒木村重の長男。
この村重とはおもに摂津(大阪北部と兵庫南東部)を任せられる器量人であり、光秀の領国とはすぐ近く。
しかも、後に「利休七哲」に数え上げられるほどの素養を持っております。
こちらも仲良しの家のはずだったのですが……。
荒木村重は突如として織田信長に反旗。
当然、光秀は村重の謀反を収めるよう本人に直接説得に当たりました。
が、ダメでした。
それどころか、倫を村次と離婚させられ、光秀は倫とともに村重の城からほうほうの態で追い出されてしまいました(村重なりの光秀への最低限の配慮と言えそうです)。
荒木村重はこの後、城を捨てて一人落ち延びることになり、残された親族郎党の多くは織田の手で公開処刑されてしまいます。
その後、倫の新たな嫁ぎ先となったのが明智家臣筆頭ともいうべき明智秀満です。
御ツマキ
明智光秀の姉、もしくは妹、であり、織田信長の側室であったといわれます。
実際の姉妹なのか、あるいは妻煕子の姉妹なのでは、とも言われております。
年齢的には妹と考えるのが妥当でしょう。
わりと信憑性のある『言継卿記』『兼見卿記』『多聞院日記』にその記述があります。
天正9年八月に彼女は亡くなり、光秀はとても落ち込んだ、と書かれております。
織田家との重要なパイプであった可能性があります。
彼女が亡くなって1年足らずで本能寺の変が起こっているのも無視できません。
本能寺の変発生
さて、明智光秀で避けて通れない本能寺の変。
当然、明智にまつわる女性たちにも非常に大きな影響を与えてゆきます。
明智玉

明智光秀は玉の嫁ぎ先、細川家を大変あてにしておりました。
光秀は新たな領国などをあてがうことをちらつかせるまでして細川家に味方になってくれるよう何度もお願いしております。
しかし、細川家はこれを断固はねつけます。
この時、細川当主幽斎は家督を嫡男忠興に譲り渡してしまいます。
そして、忠興は玉と離縁。
玉を味土野という山奥に幽閉してしまいます。
そして、光秀は山崎で敗北、明智は滅亡への道をたどります。
明智倫

倫の夫明智秀満は山崎の合戦で敗れて後、坂本城にこもります。
光秀は坂本に帰り着くことなく、途中落ち武者狩りに会い、息絶えた、と伝えられます。
光秀に同行し、坂本城に帰り着いた溝尾庄兵衛などから何らかの情報を受け取ったでしょうか(光秀は生存説すらあります)。
間もなく、坂本城は豊臣方の大軍に囲まれます。
「もはや大勢は決した」
と、秀満は城内の天下の名物を包囲する豊臣方にまとめて譲り渡します。
そしてその晩、秀満は亡き光秀と自分の妻子らを刺し殺し、城に火を放って滅亡いたしました。
津田信澄の正室
光秀の身辺の人物の多くはあまり詳しいことがわかっておりません。
その実在すら多くが怪しまれております。
ただここに、確実に存在した明智の女性がもう一人おります。
津田信澄の正室です。
津田信澄という名ではわかりにくいですが、織田信行の息子と言われると、「ああ」と思われるかもしれません。
つまり、まだ織田信長が尾張統一戦線を戦っていたころ、兄信長を殺し、取って代わろうとした弟がおりました。
織田信勝。一般的に織田信行の名でよく知られます。
結局は失敗して信長に暗殺されるのですが。
信行の嫡男津田信澄の正室は明智光秀の娘。
倫の妹にあたり、玉とはどちらが年上かわかりません。
信澄は本能寺の変の当時、長曾我部氏征討軍に参加し、これから淡路へと軍旅に立つところでした。
ところが、変が起こり、征討軍の状況が一変します。
征討軍を率いる織田信孝(信長の息子)、丹羽長秀は明智光秀と姻戚関係にある津田信澄を疑い、殺してしまいました。
津田信澄の正室がどうなったのかは不明です。
本能寺の変後
明智玉

明智玉はそういったいきさつで夫細川忠興との関係はかなりビミョーでした。
忠興自体、玉への好意はなみなみならぬものがあったのは間違いないです。
ただ、この男、常軌を逸した癇癪持ち。
戦場などの修羅場では命知らずの無類の強さを発揮するのですが……。
たとえば、ある庭師が細川屋敷の庭のお手入れにやってきておりました。
ところがそこに玉の姿が偶然目に移ります。
あまりの麗しさにみとれていると、それを見つけてしまったある男がおりました。
忠興です。
庭師は無念処刑とあいなりました。
玉は次第にキリスト教に目覚め、熱心に帰依するようになります。
玉の洗礼名がガラシャ(神の恩寵、恩恵という意味)。
しかし、忠興はキリシタンを毛嫌いしております。
そこで、忠興は玉の侍女らの鼻をそぎ落としてしまいます。
忠興はほかにも、だまし討ちをおこなうなど、かなり卑劣なところもあります(戦国の習いではありますが)。
玉がそんな忠興に対して、感情をどのように推移させていったのでしょう。
やがて、天下人豊臣秀吉が死に、関ケ原の戦いが起こると、忠興は東軍に。
西軍方は大坂にいる忠興の妻子らを人質に取ろうと、屋敷に押し入ってきます。
玉は彼らに捕らえられることをこばみ、家来に胸を突かせ息絶えました。
享年37才。
まとめ
①明智玉は父光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだが、本能寺の変後暗転し、壮絶な人生を送った
②明智倫は父光秀の盟友荒木村重の嫡男に嫁ぐが、村重の謀反から離縁され、明智家筆頭重臣の明智秀満に嫁ぐことになった
③明智光秀には織田信澄に嫁いだ娘がいる
④明智光秀の姉妹に織田信長の側室になった女性がいる