自然を身近に。季節感を満喫。散歩の効果と楽しみ方

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私はすばらしいほどの一人好きですが、その反動か、自然が大好きです。

あなたはそんなことはありませんか。

何か思いつくままに徒然に、自分の中で歳時記のようなものを簡単に編んでみたくなりました。

と言ってここに1つのテーマを掲げます。

散歩です。

 

最近、自転車を買ってしまったので、すっかりとそちらに頼りっきりとなりがちなのですが、もともと車なくバイクなくチャリもなく近場はどこに行くのもとりあえず歩きというスタイル。

まあただたんにそれほどのド貧乏というだけなのですが(笑)。

でも、やっぱり歩きだから見える世界と言うのがあって、その贅沢さをちょっと伝えたいな、と僭越にもふと想い起し、いてもたってもいられなくなったのです。

では、とりあえず行ってみましょう。

散歩の効果・楽しみ方について

 

やっぱり散歩は心身にいい

まず、これは書いておきます。

やっぱり心身にいいです。

 

よく歩いていたころと言うのは、身体検査でもほぼオールAでした。

ほかに何の健康対策もしてません。

 

そもそも私たち人類は“足だけ”で生きていました。

糧を得るのに足。

移動も足。

遊びも足。

 

それから足腰は普通に強くなります。

多少、遠くまで歩いてもだいじょうぶ。

急坂、階段はホームグラウンドみたいなものです。

 

立ち仕事に当たっては、(仕事に)慣れずとも“(足腰が)持ちやすい”。

でも、やっぱり最近遠のいたので我ながらダメになってきた悲しさです。

 

小泉八雲も散歩好き

引用wikipedia
↑小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

今、たまたま思い当たったのですが、私の好きな文学者の一人小泉八雲も大の散歩好きです。

あの人も幼いころから人間関係ではかなり苦労しております。

その辺は追ってほかの記事で紹介しますが。(→こちらをどうぞ)

そして、私らの共通特性、“敏感すぎる”を持ちあわせております。

感情を覆うフィルターのようなものがとても薄いのですね。

この人は物事に大変ストレートで、好きなものをとことん愛し、ものすごく面倒見がよく、義理堅いのですが、嫌いなものは嫌いで嫌いで仕方がありません。

で、メチャメチャきれやすいです。

そういったわけで、合わないところではとことん“はみ子”にされる、当たり前ですね。

でも、慕う人にはとことん慕われたようです。

後者が私にはまったく欠落した部分ですね。

眩しいです。

また、この人はこの頃流行りの“西洋近代文明”が嫌い、大嫌いです。

嫌にぎらついてせこせこした俗事も。

自然はその対極です。

そして、この人は小さくて弱いものが大好き、という傾向が強いです。

散歩はうってつけなのですね。

なにげないもの、そういったものを、いっぱい拾い上げることができますから。

 

散歩と一年

散歩の最大の醍醐味の一つ。

それはやはり“季節感”です。

私のような不調法者でもいささか敏感にならざるをえません。

冬というのは緑や花々が余計に心に残ります。

すると、普段以上に人の家の“庭”というものに注目が集まります。

ナナカマドハボタン、・・。

で、本当の天然の植物といえば、川原に白銀に波打つ枯れ薄がなじみやすいです。

 

そして、この季節といえば渡り鳥。

私の場合ならです。

小川に雄と雌が番いになったり、一群になったり。

まあかわいいものですね。

浅瀬を彼らがみんないっしょになって顫動してるのを見かけたことがあります。

腹ばいになって小刻みにクロール。

なんだかみんな必死にドブ浚えをしているみたいです。

 

上から俯瞰すると、幼子たちが1枚の大きな紙に思い思いのクレパスで線を描きあっているようにも見えます。

 

そして、この頃の柔らかい日光を浴びた水面と言うのは捨てがたいですね。

ほんにさやかに、でもちらちらと。

 

そういえば、やはり雪もいいです。

私は深雪です。

ああいった時の静けさ。

世界全体が静まり返るような。

まるで混じりけのない、深い静けさですね。

そんな中をザクザクと。

自分の荒い吐息までよく聞こえてまいります。

そんな行き掛かりに、だれかの家の庭に飾られた何気もない雪だるまを目に入れなんかすると、私のようなものでもなぜか心がちょっと温まります。

 

そして意外にグッと来たのがこの光景。

新たな季節感の妙を思い知りました。

是非お勧めです。

というのも、それは大寒ごろの未明のことです。

やはり、ちょうど外には深雪が積もっておりまして。

もう止んでましたが。

誰かの家の窓からの明かりの下を潜り、処女の雪道を踏み分けてゆくのです。

本当に静かですよ。

まるでそこは月の世界です。

で、ここからが本題なのですが、ふと目に入ったものに私の体がそぞろにぞわぞわっとなりました。

何か、というと、大きなクリスマスツリーです。

何本かの白と青の聖なるイルミネーションの帯が1本すっくと立った庭木に彩られておりました。

私は何ともなしに近づいてゆき、そして、そのまま見惚れました。

こんな一見ただの不調法とも取れる季節遅れがなぜこれほど私の体に訴えかけてきたのでしょう。

でも、すぐに思い当たりました。

あ、そうだ。

これは郷愁(ノスタルジー)の感覚だ。

つまり、一番遠い季節なんです。

待ち望む桜満開の春でなく、真逆の茹だる夏でも、また秋でもない。

だってその時、クリスマスツリーは次に会うのが一番遠いのです。

体はわかるのですね。

だんだん春が近づいてくると、アスファルト舗装のされてない農道を行くのがいいです。

やはりそこにあるのは“芽吹き”ですね。

白や青や赤や紫とりどりの小さな小さな野花たち。

オオイヌノフグリナズナミドリハコベオランダミミナグサホトケノザヒメオドリコソウツルニチニチソウ、・・やがて西洋タンポポなんかも目につきだします。

見なければ通り過ぎたであろう。

実際、以前の私ならこれらのほとんどの草花の名前すら知りません。

こんなに身近にありますのに。

これは本当に散歩の醍醐味です。

いやはや、満福な気持ちになります。

3月ぐらいになると好きなのが、よく晴れた昼、畝を揚げられたばかりの新畑から濛々と白い蒸気が込み上げている時があります。

また、花では、椿スイセン辺りがやはり目に留まります。

そして、しばらくするとあれですね。

です。

桜と言うのは本当にそこにあるだけで“異空間”とつながっているような不思議な心地がします。

実は私にはあまり言いたくない穴場がありまして、そこの桜が今まで見たどの桜より好きです。

というのも、ここは道の左右にびっしり並木にサーーーと遠くまで植えられてまして、でいて“花が手に取るように近い”のですね。

ありありと迫りくる桜のトンネル。

まあ圧巻です。

私はいつもその季節になるとひっそりとそこに足を延ばすのです。

で、はっきり言って“本当に”穴場です。

普段と変わらず、人通りなんて滅多にありませんし、あっても行きがかりのようにポツ、ポツ、あるいは、1組ほどの親子や夫婦が傍の川原で弁当などを持ち長閑に。

 

桜は散るのが寂しいですが、これは花の季節本番の到来を告げているようでもあります。

マーガレット山桜躑躅燕子花、・・、と目に映る光景は実に鮮やかに移り変わってゆきます。

あ、あれを忘れてはなりません。

川原の緑に群れ咲くカラスノエンドウです。

 

ああ、それと川と言えばです。

なぜ、川なのかと言えば、高いコンクリートの両岸に仕切られた幅10mほどの小川の水上を、燕が2羽、3羽となって何やらクルクルと旋回滑空を続けているのを見たことがあります。

まるで曲芸飛行。

「よくあんな狭いところを」と思いますし、いったい何のためにそのような難行をしているのかはやっぱり全くの不明、自然の不思議です。

ただ、何かしらこう、“春めいた躍動”を掻き立てられずにおれません。

また時折、瑠璃色をした小鳥がキラリと光るのが目に暈むことがあります。

後、野草では

食い意地を張って申し訳ございません。

だんだん太く長くなっていくのがたまらんですね。

ええ、やっぱり佃煮です。

後、山椒の実もおいしいですよ。

(※)古来東洋医学では、春は青いもの、すっぱいもの、が体に良いとされます。つまり、この季節の山野草というのはうってつけ、となります。

そして、5月ごろになると待ち遠しくなるのが

なぜあの光はあれほど人を惹きつけるのでしょうね。

いよいよ季節がやってくるとまず、ふうわふわと1つ、2つ。

で、だんだん日が経つごとに増えてくるのですね。

やがては消えゆきます。

6月の花は青、紺、紫、ああいうのがどうしたってやっぱり。

ラベンダー菖蒲紫陽花、最近は桔梗も品種改良され、このぐらいの季節に一つの旬を迎えます。

で、この頃になると、どうしたって気持ちがウーーーン⤵ってなってきます。

それは単に梅雨の憂鬱さだけから来ておりません。

そうです。

散歩好きの宿敵と言ってよい“あの季節”がすぐそこまで近づいてきているのです。

真夏です。

もう特に最近の夏は容赦がありませんからね。

ほんの1kmか2km歩いただけで、汗がブワッと噴き出ます。

シーズン当初ぐらいはなんか肌にこびりつくようなヤな汗。

でも、すぐ慣れてくると、サラサラッと透き通る汗に変わってきます。

そう、この季節のウォーキングって実は一番身体にいいのです。

もちろん熱中症には気を付けなければなりませんが、まあ新陳代謝が頗る上がる上がる⤴

夏が終わるころには大概血液サラサラです。

それと、側溝

はあ?かもしれません。

いやいや、あそこはなかなかに目が離せません。

たとえば、この季節大概干上がっているのですが、そこに自然な残土の割れ目・裂け目ができあがっております。

あれが時にすばらしいほどアーティスティック!!

自然の造形おそるべし

 

それを知ると、いつもの朝夕の通勤にちょっと愉しみが増えます(徒歩の場合。だから“歩き”っていいのですよね)。

それと、何とも哀れを催すのがです。

まあ本当に残酷としか言いようがないのですが、夕立があったりすると、側溝はたちまち水で溢れ返ります。

でも、夏の日差しがほんの何日か続くとすぐに干上がってしまいます。

そうなる過程でたくさんの蛙たちが少しでも水がある方へ、あるいは日陰へ、とだんだん肩を寄せ合うようになっていきます。

そして・・

えも言えぬ、かわいらしさと健気さと、自然の過酷さ、無常観。

また、やはりこの季節と言えばこの動物を忘れてはなりません。

この季節、夜の散歩はいいですよ。

このぐらいの時間になると、鳴き声の趣が全然違ってきます。

昼みたいにみんなで一斉にワーーッって感じじゃないです。

ほんの数匹、「何とか生き残った」みたいのが、出がらしみたいに必死に鳴いてます。

夜の人気のない道を街路灯に沿って歩くのです。

すると、その寂びた灯りと、その蝉の声のコントラストがたまらない。

8月の彼岸ごろからは野辺に“本来の”桔梗が1輪健気に咲いていたりします。

漸く陰りを兆した陽光の真下で。

9月になると曼殊沙華ですね。

畑の畔至る所に咲き乱れる。

で、あれ、早朝がいいのですよ。

何がって朝霧の深い時にですね。

まだ誰の人気もなく、聞こえるのは小鳥たちの活きの良い囀りぐらいでしょうか。

そんなちょっと異世界な玄妙の彼方に、鮮紅の群生が薄ぼんやりと浮かび上がっております。

あれはまさしく“彼岸花”ですね。

そして、道を曲がる時にふと薫る金木犀。あるいは、群れ咲くコスモスつゆ草もかわいいですね。

セイタカアワダチソウ、私あれ咲き始めがものすごく好きなんです。

なんかみずみずしいかわいらしさがあるんです。

でも、しばらくのうちにとんでもなく大きく高く、しかも群れ群れてのさばることになるのですが。

ただ、伸び伸び切って、狂骨化け物みたいに成り果てた様もなんだか妙に哀愁があります。

 

動物たちとの触れ合い

散歩での通年での嬉しさのひとつが行く先々での動物たちとの触れ合い

もちろん、上に記した通り季節的なものもたくさんありますが、ここではそれ以外を紹介しました。

まずその中で代表的なのがこれ。

ワンニャンとお近づきになれます。

以前の私ならわざわざエサでつらずとも多くのワンニャンと昵懇になれました。

ワンニャンは最高です。

 

後、大きな川の上、高い電線が3本ほど長く並行しているところに、鳥が止まっていることがあります。

とんびが超然と1羽だけ、のこともあれば、鳩や烏が2羽3羽まるで楽譜みたいに、ということもあります。

 

まとめ

最近あまり歩きで遠出をすることがなくなってきました。

なので、あまり言えた義理ではないのですが。

ただ、やっぱり散歩はいいものですね。

とことんお金がかからず、最高の贅沢。

いや、ここに贅沢を見いだせなくなったら、人間としてとても寂しいのかもしれません。

最近ワンニャンが私に寄り付きづらくなったのは、どうも私にその辺がおろそかになりかけているせいなのかもしれません・・⤵

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