
六角義治(1545~1612)。
戦国大名の中でもかなりマニアックな名前です。
ゲームなどではそのあまりにもの数値の低さから上級者にとってはかなりやりがいにあふれたキャラクター。
しかし、当時の近江の国では”六角”といえば超名門。
圧倒的強勢における御曹司として生まれながらその伝統の領国を追われ、家督もはがされ、跡継ぎにも恵まれなかった、世紀のダメダメ戦国大名の数奇な人生を振り返ってみましょう。
またわが中編小説からも抜粋して、彼について一節、紹介させていただきます。
近江最大の名族佐々木氏

近江には
沙沙貴山君(ささきやまぎみ)
という古代豪族が盤踞(ばんきょ)しておりまして、そこに平安時代中期宇多天皇の血統が下りてきて、どうもこれらが融合されたようです。
いつしれず、
佐々木氏
近江源氏
などと呼ばれるようになり、地元の軍事貴族として勢力をはりました。

近江源氏の名が一躍全国にとどろいたのは源平合戦のころ。
佐々木四兄弟というのがいずれも源頼朝の創業を助けまして、わけても末弟の高綱はあの
『宇治川の先陣争い』
で梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ。梶原景時の嫡男)と争ってその誉れを勝ち得たことでつとに知られております。

鎌倉中期になりますと、佐々木宗家の血統が主に二つに分かれます。
方や六角。
もう方や京極。
時にお互い争い、あるいはいろいろ融通しあったりして、両家はその後も近江の国に繁栄を続けてゆきます。

戦国時代に入ると、六角高頼の時に足利九代将軍義尚をリーダーとする全国の大名による親征を受けます。
これを“鈎(まがり)の陣”といいまして、甲賀ものなどによる奇襲戦術、さらには陣中に義尚が突然病死するという奇跡的天祐もあり、この存亡せまる大難をなんとかしりぞけます。
六角の英邁君主定頼
↑安土城のすぐそばです。また、佐々木の大氏神神社『沙沙貴神社』も。豊臣秀次が街づくりの基礎を築いた“近江商人”の町近江八幡もサッと行けます。

定頼の代になると、居城観音寺城下にてあの織田信長よりも先んじて楽市楽座を行います。
さらには家臣らを居城観音寺に集める城割を実施。
後代の一国一城令のルーツとなったともいわれます。
こうして群雄割拠・下剋上うずまく弱肉強食の戦国乱世においてもあいも変わらぬ繁栄ぶり。
京の都や畿内をもたびたびおびやかしておりました。
そんな定頼の嫡孫が義治です。
六角義治失態①野良田の合戦

まあ、実のところ義治の父義賢の時代から勢力の停滞がちらちらと見え始めておりました。
が、義治の事績でまずまっさきにインパクトのあるのが、
1560年野良田の合戦
における惨敗です。
対戦相手は浅井氏。
あの浅井長政のところです。
長政と義治は同い年なんですね。
それでいて従来、浅井家は六角家の威勢により屈服を余儀なくされておりました。
しかし、湖北の暁将ともいわれる長政は家臣たちと結託し、六角家の傘下に甘んじている父久政を捕らえて竹生島に幽閉してしまいます。
そして、六角に反旗を翻すんですね。
当然、六角も黙ってはおりません。
兵力では倍とも言われるほど圧倒していた六角勢。
楽勝かと思われたのですが、浅井方の奇襲により文字通り“惨敗”です。
だいたいがこのころの六角氏の外交動向に不可解な点があります。
もともと尾張の織田氏とは同盟関係にあったはず(桶狭間合戦では織田氏に援兵を送っております)。
なのに、ちょうどこの辺りからその敵対勢力である美濃斎藤氏に近づいてゆきます。
六角義治の失態②観音寺騒動

そして、1563年とんでもないことがおこってしまいます。
観音寺騒動です。
観音寺騒動とは
「六角義治が家老である後藤賢豊父子を誘殺してしまう」
という物騒な事件で、事態はそれだけに収まらず、義治に失望した家臣らは勝手に続々と国元に引き上げてしまいます。
主君と家臣らの確執。
あるいは、義治と前君主義賢とのすれ違い。
などともいわれておりますが、1560年ごろから1563年ごろ、この家中ではすでに大いなる何かが起こっていたのでしょうね。
六角義賢・義治父子は首城を置いて、さっさと甲賀へと遁走。
後に何とか城には戻ってきますが、すでに父子ともども主の地位を放棄せざるを得ず、義治の弟義定が形式上その地位に納まることになります。
六角義治の失態③六角氏式目

もう落ち目はどうにも止まりません。
その後も、六角は
・浅井氏に惨敗
・家臣たちの浅井氏への寝返り
が続発。
領内の百姓一揆や打ちこわしをほのめかす物証すら上がっております。
そして1567年、家臣たちにとうとうこれをたたきつけられます。
六角氏式目
いわゆる戦国はやりの”分国法”のひとつです。
ただし、ほかの国のような、たとえば『今川仮名目録』とか『甲州法度次第』のようなものとは一緒にしない方がいいです。
こちら『六角氏式目』のほかの”分国法”との違いはなんといっても大名の権力を制限する性質が色濃いのです。
「独断で権力をふるうな」
「何かあったら家臣らの同意がないとダメだぞ」
ということなのでしょう。
もう戦国大名も形無しですね。
六角義治の失態④織田信長にあっさり敗退

こんなんですが、六角氏は南近江になんとか勢力を残存させておりました。
まあ、しかしここに容赦のないあの方がやってまいります。
織田信長です。
1568年、信長は足利義昭を奉じ上洛の兵を挙げると、道中の六角氏はこれに健気にも抵抗。
しかし、浅井・織田の連合軍の前に手もなく敗れてしまいます。
六角義賢・義治父子らは夜陰に乗じて甲賀へとまた遁走。
その後も藩織田信長諸勢力らと連合して反抗をしたたかに続けますが、やがて国を追われ、その人の存在も大いなる歴史の渦の中に忘れ去られてゆきました。
その後の六角義治・・

弟・六角義定の流れはどうにか江戸時代旗本として残ったようです。
ただ、六角義治本人に跡取り息子は現れておりません。
これほどまでに戦国大名として失敗した人ってほかにいるのでしょうか。
こんなとことん散々の六角義治ですが、実は後々、歴史の檜舞台の片隅にひっそりと、でも結構重要な役回りで再出現しております。
新天下人豊臣秀吉のお伽衆です。
秀吉はその生まれから周りに貴種を集め、なんとか無理やりにでも自分のブランドを上げようと躍起になっておりました。
お伽衆に選ばれたのはほかにも
・足利義昭
・斯波義銀
・山名豊国
・細川昭元
など、歴史ファン垂涎(?)のまさにオールスターです。
六角義治はさらに日置流弓術の達者だったので、関白豊臣秀次主宰の犬追物(いぬおいもの)では弓術指南役を務めあげます。
やがて、秀吉は病没。
次に、六角義治はその遺児であり跡取り息子の秀頼の弓術指南役になるのですが。
では、小説はそういった一端から。
【小説】六角義治・豊臣秀頼師弟
やがて秀吉も死に、徳川家康がその後の覇権を決する大戦に勝利した。義治はなおも豊臣家に残り、遺児秀頼の弓馬指南役を承った。
この役は義治にとって特に感慨深いものとなった。
天下人の子としての周囲の期待を一身に浴びて何不自由なくすくすくと育ちながらも、世情からは確実に亡国の足音がひたひたと忍び寄っている。
「師は何ゆえこういつも的を外さんか。何ぞその大要あらば教(の)せよ」
秀頼がそう屈託もなく尋ねてくる。
「左様ですな。まず、『見の見』にござりますかな」
「『見の見』とは……」
「矢を射る時、殿下は何を目指しますかな?」
秀頼は色白でちょっとふっくらしたその気遣い深く、利発な顔でまじまじと見入り、
「的。正鵠よな」
と玲瓏な声で断じ切った。
「左様にございます。ただその時、その的をご覧になられている己があるということを悟らねばなりません」
秀頼は食い入るような瞳で義治の目を見つめている。いまだ片生りながらもその背負うべきものを意識しているのだ。
「で、己とは何でありましょう。的とは何でござりましょう」
義治はしばし沈思した。
「まあ、拙者などではとんとわからぬのにございます。が、考えに、時に、世に、任せまする。さらには、己にとり的とは、的にとり己とは、この世における己と的とは。そんな答えの出ぬ思案をただ滔々とこねくってこねくってこねくり回して居ればそんな私にでも風が、世が、すーっと留まりゆく時がございまする。そんな刹那を捉え、ひょうど」
「ほう」
秀頼は黒く大きな瞳でまじまじと見入り、唇を丸めている。
まあ、自分が『見の見』などと。今さら笑い種にもならぬ。
にしても。義治は思った。
こいつは死ぬな。
儂のように生きさらばえる玉じゃない。信長や長政。ああいった連中と同じ匂いがする。世の、そして己の偉大さも醜さもこれから時を追うごとにますます思い知ることになるだろう。そして、世と己の何が動かし易い難いもな。しかしそんな表裏ですらいともたやすく変転する。豊臣秀頼。そなたはこれからそういった洗いなおしを何度やって生きるのだろう。儂はそなたといて愛着を催す。しかもほかの連中からとは全然ちがうところでな。普通の奴ならこれよりない迷惑な話だろう。が、わかってる。なんでそなただって儂のことをのぞきこみたくなるのかを。儂ら人間はみんなどこまでも勝手な生き物だ。
まあ儂の場合、罪と挫折をもういいというくらい味わい、人目にさらし生きさらばえてきた。あの世で偉大なるご先祖たちや迷惑をかけたあまりにあまたの方々があの時の恨みを、失跡を、と手ぐすね引いて待っている。もちろん、この世でもわが奇跡的汚名は半永久的に語り継がれてゆくだろう。さてさて儂は生きるよ。そなたも生きろ。
佐々木義治。
その後どのような余生を送り、死を迎えたのか、確たることは伝わっていない。