
世阿弥とは日本の芸能界において画期的人物であり、今でも人々への精神的・文化的影響は計り知れません。
なのに、世の中では
「あ、あの観阿弥とセットで覚える人ね」
「確か、能の・・」
とあまりにぞんざいに扱われております。
が、これだけ私的に“小説になる”歴史上の偉人はそうおりません。
現に私が手掛けたところ、わが唯一無二の入選作品になりました。
何がそんなにすごいねん。
そして、どこがそんなにそそるねん。
大人になって世阿弥を“知り”、引っ張りこまれる人は多いですよ。
メチャメチャ波乱万丈の人生
観阿弥の子

世阿弥の人生はとことん波乱万丈です。
父親は観阿弥。
「どっちが上なのかな」
「ていうか父子だったの?」
という世界ではないですか。
もう一度言います。
父が観阿弥で、世阿弥はその嫡子です。
もともと、猿楽(能のルーツ)は神社でやる神事、あるいは、ちょっとした客寄せ芸です。
それを一躍、天下の大衆にも貴人にも大人気の芸にまで昇華させた大功労者がだれあろう観阿弥。
だから、世阿弥はその英才教育を幼いころから惜しげもなく受けていたはずです。
強烈なキラキラネーム

ちなみに世阿弥の幼名を知ってますか。
信長が三法師、家康が竹千代、政宗が梵天丸。
で、大芸術家の世阿弥は鬼夜叉です。
ウルトラスーパー子役アイドル

やはりこのおっさんは生まれながらに鬼が宿ってるんですかね。
それはそれはの美童だったようです。
はっきり言って時代のスーパー子役アイドルです。
天下だけでなく、時の将軍足利義満も摂政関白何度もやった剛腕二条良基も大ぞっこんだったようですからね。
が、彼の絶頂期ってここなんです。
もう、後は次第に下り坂。
で、ドンドンえぐいことになっていくのですが。
下り坂

◆多くのライバルの台頭
◆父・観阿弥の死
◆足利義満、二条良基の死
などを経て、世間での評価が下火になっていきます。
世阿弥劇場の事実上開演

でも、結局このおっさんの悲劇ははっきり言ってここからです。
もはや、シェークスピア張りです。
男児がいつまで経っても生まれなかったからでしょう。
弟四郎の子を養子に引き取ります。
で、跡取りにしようと育てます。
が、間もなく世阿弥には悲願の男児出産。
十郎です。
で、このおっさん、いきなりわけわからん事言いだし始めます。
「跡取りは十郎以外ない。だって、すごいぜこいつ。俺を超えた名人だもん」
まあ、この十郎が本当にすごい人だったことは後後確実に証明されるのですが。
弟四郎は当たり前にマジ、ブチギレます。
当然、世阿弥の跡を継ぐはずだった自分の子三郎も連れて出奔。
その出奔先がえらいところなんです。
四郎父子と万人恐怖の影

足利義教、日本史でおなじみのあの“万人恐怖”大魔王です。
当時はまだ将軍になっておりませんでした。
なんせ本人が義満の血を継ぎ優秀と評判なのに、上に兄が何人もいたので成れてなかった人です。
よっぽど馬が合ったらしくこの父子を大いに囲い込みます。
そして、晴れてくじ引き将軍(※)になると、牙をむき始めます。
(※)日本史をやっていた人にはとくとご存じのとおり、この至極トリッキーなおやじはくじ引きで選ばれた唯一無二の将軍です。
当てつけのように、世阿弥を醍醐寺の楽頭職から外したり、仙洞御所に出禁にしたり。
そんな矢先にあろうべからざることが起こってしまいます。
十郎の不可解な死
なんと、愛息子であり、当道期待の十郎元雅が伊勢安濃津で事故死。
怪しすぎます。
佐渡に島流し

しかも、世阿弥は佐渡に島流し。
この辺は、足利義教を知る人には「なるほど」という感じでしょう。
うん、そういうかなりエキセントリックなハラスメントスキー・キャラです。
いうなれば、信長の狂気の部分だけそのままにして、ちょっと無能、かつ、性格を小物にした感じですね。
で、世阿弥はどうにか無事に本土の土を踏めるようにはなるのですが・・
四郎の子供もすごかった
ちなみに、あの四郎の子は後に音阿弥と呼ばれ、演技に関してはあの足利義政にすら絶賛されるようになります。
この時代の能というのはオールスター感が半端なく、知れば知るほど面白いです。
【小説】世阿弥

こちらに紹介するのは私の小説の最末尾からの抜粋です。
本題はちがいます。
また、著作権は今私の手元に戻っているので、googleさん悪しからず。
登場人物
金春禅竹……世阿弥の養子。金春座の棟梁。能において当代を代表する名手の一人。
世阿弥
足利義教
三郎……世阿弥の弟四郎の子。後の音阿弥。
本編
……。
例の失踪事件があってから暫く義父は発作を起こしては医者に罹り、また持ち直してはまた発作を起こすということを繰り返している。周囲も何時しか慣れっこになり手際も慣れ始めたころ義父の容体がいつもの様子になく急変し、どうにか一命は取り留めたものの、もうさすがに今度ばかりは余命幾許もないことは何となく誰もが察するところとなった。次はいつ来るのか、それを頭の片隅において日々を送る。普段通りに接するのが恐らく本人の望むところであろう、というのが禅竹含む周囲が出した決断であった。この人はここに来てふと眠りの中魘されていることが時々あった。発作が来たのかとどきりとさせられるが、間もなくするとまた何事もなかったように静かとなる。禅竹が一応掌をその鼻先に宛がうと、微かに呼吸を感じた。大丈夫、無事のようだ。その面の奥に、(この人は一体何に魘されているのだろう)と俄かに想像心を掻き立てられる。やはり子息十郎殿が亡くなったあの時なのであろうか。それとも青蓮院で見た三郎殿のあの瞳なのであろうか。この人でも地獄の責め苦を恐れているのだろうか。いずれ自分がこの立場になった時どうしていられるであろうか。
そんなある日、禅竹が竹田郷界隈を歩いていたところふと妙な人影が目に留まった。背格好に銀白の後ろ髪、そしてあの翁面、禅竹が(義父上?)と思った刹那、翁面はさっと翻り背を向けてよたよたと歩き出した。
「義父上」
禅竹が追おうとすると翁面はすぐ様くるりと角を曲がり姿を消す。禅竹は嫌な胸騒ぎがして駆け込んだ。が、角を追うとどうしたことか翁面は遥か先を行っている。あの一向に覚束ない足取りで。禅竹がまた駆け出そうとすると、翁面は嘲弄するようにまたくるりと角を半転して姿を消した。(義父上!)何時しか禅竹は宅地を抜け青々盛る田園の畦道に足を踏み入れていた。未だに翁面との距離は一向に縮まることなくかと言って開くこともない。ここならば一気に縮められるはずだ、と脚に力を込めると、(あ)と見る間に翁面は左右の袖を乱舞させ鳥が水面を蹴るように駆け出した。恐るべき脚力である。大の大人の禅竹の足でもその影は見る見る小さくなった。
(何者だ)
禅竹の両脚はもう本人の意思とは無縁にただ闇雲に回転し続けた。
よく走ったものである。体力はやはり以前に比べれば大分衰えたが、それでもよく走り抜いた。何時しか藪の中に足を踏み入れ、道なき山林を踏み上り、もう本人も何が何か分からずただ影を追った。そして、ついにそれすら見失い、幹に背から寄っかかり力なくへたり込んだ。禅竹は瞳を閉じ、爆発しそうな体を大きく揺さぶり咽喉から奇怪な空気音を反芻させては噎せ返っていた。その時ふっと季節外れの凍てつくような微風が肌を擦った。遠雷が鼓膜を擽り、禅竹がふと見上げるとそこにいつ居たのか歳経りた大木の枝に大の字に仁王立ちしている翁面が全身影に染まり黒々と浮かび上がっていた。冷風が起こり辺り一面の草木が一斉にそよそよと騒めいた。と、禅竹は神意に打たれたように体が動かなくなった。翁面は不逞に福福しい面のままただ悠然と見下ろしていた。
「義父上!」
禅竹は縫い合わされたように硬直した唇をやっとの思いで開けるともう絞り出すようにそう叫んだ。
「義父上!」
今呼び止めないと帰ってこないような気がした。が、扇を大きく振りかぶるように翻ると鹿が跳ねるように枝を蹴り、ましらが密林を縦横するごとく木から木へと瞬く間にその遥か奥へと掻き消えていった。禅竹はあの過剰に過ぎる福福しい面の背中に深い憂いを見た、そんな気がしてならなかった。ふとぽたりと禅竹の頬に冷たい雫が落ちた。遠雷の音は以前より間近となり空はいつの間にか黒濁した雲に覆われていた。ふと我に返った禅竹は独りとぼとぼと道なき山林を降りることとした。
不思議なほど帰路は迷うことなく何事もなく下山することができた。山を出た辺りから兆度本降りとなり後は袖で傘してどうにか家に駆け戻ることとなった。帰宅早々邸内は憂愁に包まれており、義父が亡くなったことを知った。禅竹は既にそうなる予期に迫られていたが、もう溜まらず哭いた。
嘉吉元年六月二十四日、将軍義教は赤松屋敷に招かれ宴に興じていた。兆度三郎が「鵜羽」を舞っている最中義教は微かに遠く地鳴りのするような音を聴き分けた。間もなく乱入してきた武者たちによって宴は蹂躙され、義教は敢え無い最期を遂げた。安積監物なる人物によってその首を取られたというが、義教の瞳にはその時何が映ったのであろうか。
巷では「世阿弥が御所を道連れにした」「世阿弥が将軍を呪い殺した」などと一時持て囃されたがどうなのだろう。葬儀の際まるで寝具に籠りっきりだったはずの世阿弥遺骸の袴裾には跳ねた泥やら草擦りの形跡があった。皆この点を訝りあったが禅竹はこの崇高な義父の死を汚したくないという思いであの翁面との一件は何人(なんぴと)にも語らず、生涯己の胸の内に秘め続けた。義父の死に顔は噛みしめるように押し黙っていた。
世阿弥の著作
世阿弥は文章を書くのがめちゃめちゃ好きです。
そもそも文才がすごい。
世阿弥の脚本

彼の脚本は幽玄美が素晴らしいです。
その舞台を夢幻能といいます。
たとえば、彼の著作『松風』(観阿弥との共著ともいわれます)から一節。
「帰る波の音の、須磨の浦かけて、吹くや後(うしろ)の山颪(おろし)、関路の鳥も声々に、夢も跡なく夜も明けて、村雨と聞きしも今朝見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん」
能脚本『松風』より
●ほかの代表作はこれら
「井筒」「砧」「西行桜」「高砂」など
風姿花伝

で、世阿弥文学と言ってもうひとつ絶対に外せないのが指南書。
その代表作が『風姿花伝』です。
知る人ぞ知る名作。
何がすごいと言って、ともかく、ものごとの核心をついております。
☆どうやればうまくできるのか
について、稽古の仕方、演出、そして精神面まで。
芸能だけでなく、芸術全般、学術、スポーツ、そしてビジネス、政治など、いろんな分野の人がこれを読み参考にしており、その中から成功者も多数。
たとえば、『初心忘るべからず』なんてのはここから取ってます。
あるいは『秘すれば花』というのを聞いたことはないですか。
これも『風姿花伝』から。
花はそこにあることがわかっているのを見るより、思いがけず見ることができた方が感動しますよ、という芸論です。
このおっさんは妙にマトメスキーなので、ともかくきめ細かく、わかりやすい。
今、彼が予備校講師なんかをやると、とんでもないカリスマになると思います。
にしてもこれだけの人でもあんな悲惨な最後になるのですね。
人生ってどんだけ難しいねん・・