
マイノリティとして生きづらさを抱えているあなたに捧げます。
私の長編小説より一部抜粋。
登場人物
ネシャート……中世アラブの学者の娘。アイシャの祖母。学術に才気煥発であったが、女性であるため、表立って能力を生かせず、流離後定住することになった村で異端扱いされる。アイシャの村内最大の理解者であり、二人は密かに学術の師弟関係を続けている。
アイシャ……アイシャの孫娘。探求心が並外れており、学術の才は非常に豊か。
サイフル……ネシャートの息子。アイシャの父親。家長。もともと、学術の才はかなりであったが、村人らに異端扱いされたため、自分の個性をとことん押し殺し、村内になじむようになった。
アル=カーディル……元苦行者。ネシャートの夫。アイシャの祖父。サイフルの父。ネシャートと駆け落ちして、今の村に転がり込む。ちょっと間が抜けているが、おおらかな性格で人に愛される。すでに物故。
マイノリティとして生きづらさを抱えるあなたに捧げる小説
既にあのネシャートも気息奄々臥すのみとなっていた。そして、そこにはあまたの親族衆の面々が一家を築き上げた偉大なる母を見守ろうと取り囲んでいた。アイシャの顔もあった。サイフルの顔もあった。
思えば、最初は夫アル=カーディルとネシャート二人だけだった。だが、最初の一人を生み、そして二人目、三人目、……、やがてその子たちがそれぞれに伴侶を見つけ、さらに子を産み、ここに会する面々はあまりに多かった。また、他にも諸々の都合でここに集うことのできなかった無念な面々も少なくはなかった。一族はこれほどまでに膨れ上がった。そして彼らは知った。そして慕った。それは愛であった。知よりまず先に愛であった。忍耐であり調和であり、そしてそれを大きく支えるものに愛があった。誰もが皆それを思い知っているのであった。現に差し迫ったあのサイフルの沈鬱な表情があった。サイフルも実はよくよく分かってはいるのだった。だが、現実に木端微塵に打ちのめされ、やがて反動の憎しみを生み、切り捨てねばならなくなった。己が正しいのか母が正しいのかではない。サイフルは己の正しさを信じたのだった。その信念は頑としてあり続けていた。
「サイフル、あなたに申しておきたいことがあります」
ネシャートは数ある面々の中あえて彼を名指した。
「私たち夫婦が余所者というせいで、そしてその中でも私のせいで、随分あなたには苦労を掛けてしまいました。本当にごめんなさい」
既に息をするのもやっとの老いた危篤の病人の声が噎んだ。そしてその瞳には熱い涙が光っていた。
「……あなたはよくやりました。今こうして皆が会せるのも、大体世間から見て変わり者が多い我が家の皆が大手を振ってこの村を歩けるようになったのも、それぞれに稼ぎを持てるのも、それぞれの家族を持てるのも皆あなたのお蔭です。……ただ、……」
……。
「ただアイシャ、あのコだけは気を付けてあげて頂戴。あなたのやっていることは正しい。でもね、その正しいことは皆に通用する訳ではないのです。アイシャ、あのコは特にそこに収まりきるような人間ではありません。彼女を余り一つのやり方に押し込めるようなこと、これをすれば必ず災いを振り招くことになるでしょう。いや、彼女だけではありません」
……。
「正しいことというのはそんなに善悪で測れるほど単純なものではありません。地上にある無数の人、無数の物、無数の自然……、その無数の違いをあまりに無碍にするものであってはなりません」
……。
「あなたのやり方は正しい。しかしその正しいはすべてにとって正しいのでしょうか」
……。
「あなたは一族の長です。その肩に背負っているものの大きさは私ごときには計り知れません。あなたは剣です。あなたはその剣で一家の運命を切り開いてきたといえます。ですが、一家の長として一族の長としてその固く鋭利なだけで本当に宜しいのでしょうか。例えば、掬い上げる水瓶、優しさ寛容さをも知る偉大なる一族の指導者となってください」
……。
サイフルはすっかり黙り込んでしまった。皆の耳がここに集まっている。最後の最後に一杯喰わされた。そういう感慨だった。……。
「それとアイシャ」
すると、アイシャはひょっこりとネシャートの枕元に現れた。もうすっかり大きくなり娘へと成長しつつあった。ネシャートはほんのり微笑を浮かべると、
「あなたは本当に変わり者ですよ。私が言うのも何ですが私の若い頃にそっくり」
ネシャートがちょっとはにかむと、
「あなたは私と一緒です。きっとこれから幾多の災厄があなたを見舞うでしょう。これまでよりもずっと。そして何よりも苦しいのは誰もあなたを理解してくれないことです」
……。
「でもね、神様(アッラー)はそんな厳しい方ではないようです」
……。
「現に私は幼き日父や兄や弟がおりました。そして、あなたのお祖父さんにも会いました。そして今はあなたがいます」
……。
「神様(アッラー)はやはりどこまでも慈悲深く寛大なお方です。きっと私がいなくなってもあなたのことをちゃんと理解してくれる方がまたどこかにいらっしゃいます。それを信じておいてください」
アイシャは込み上げてきてもうしゃくりあげそうになった。
「私はあなたの個性が必ず生きる日が来ると固く信じます。あなたの行き先は決して砂ばかりの死せる砂漠ではありません」
……。
「全知全能にして万物を憐れみ給う神(アッラー)の御名において何卒この子に祝福を授けたまえ」
……。
こうしてネシャートは集まった親族一人一人に丁重に別れの挨拶を済ませると、すっかり安心したのだろうか。その晩の間に逝ってしまった。実に静かな最期だった。