
私の書く光秀公の長編小説より一節。
山崎の戦い。
(明智光秀について詳しくはこちらの記事で)
山崎の戦い
私は決戦の地を京の西方山崎の地に選んだ。京を口、大阪平野を胃袋に例えるならその間最も狭くなる喉元に当たる。いうなれば西方から京を守る最後の防衛線、ここを抜かれればもう京は終わりであった。大和の筒井順慶殿の援軍をぎりぎりまで山崎の南方洞ヶ峠で待ってみたが、ついに一兵も現れてくれなかった。結果、軍勢は当方一万六千、羽柴秀吉殿を盟主とする敵連合軍の総勢は俯瞰でざっとこちらの倍程度。もはや当方の敗勢は明らかであった。山崎の中央を堂々と突っ切る近畿の大動脈淀川へとか細く横入する円明寺の小川に沿って横一列に布陣し、「一兵たりとも京に通すな」を合言葉に絶対の防衛線を敷いた。濃霧の彼方から続々と行軍する敵勢、延々と連なるその長蛇の陣は無限に途切れる事のないように思われた。ついに天に誅される時が来たのだと思った。しかし、不思議なほど恐れはなかった。いや、私だけでなく私に付き従って来た男たちも含め、「明智の生き様をまざまざと思い知らせてやろうじゃないか」そういった気迫で漲っていた。水色桔梗の旗印は今日も揺れていた。
ぽつぽつと小雨が濃緑の大平原を濡らし始めた。天はどこまでも我々を嘲笑っているかのようだった。
(これでは鉄砲が使えん)
私はふと北濃の山林を彷徨った時のことを思い出した。
(あの頃は梅雨になる前に山を抜けねばならんと必死になって前を向いて歩いていたっけ)
その梅雨がついに来た、そんな錯覚に陥った。思えば信長殿を討ち果してからのここ数日の目まぐるしき変転はすべて六月に降りしきる長雨と共にあった。私は北濃の山中に迷い込んでからたった今に至るまでずっと夢を見続けていたのかもしれない、という気になってきた。随分長い夢だった。しかし、この雨と共に私は今終焉を迎えようとしているのだった。
戦は敵方の先陣、高山右近隊による当陣容への中央突撃で始まった。長い蛇の頭が腹部目がけて勢い良く咬み付いた。我が腹部は寸も揺るがなかった。あれは内蔵助利三の陣。
(内蔵助もよう戦っておるわ)
私の口元から不敵にも笑みが漏れた。敵方の長蛇の陣は際限なく後ろから後ろから水べりに飛び込むようにして、左へ右へ鎌を振り小川沿いの我が防衛線に間断なく衝撃を与え続けた。我が防衛線は何度となく後ろに崩れかけたが、その度に元の形状を取り戻すべく頑冥にじりじりと押し戻した。敵方の疲弊も夥しかった。防衛線に跳ね返され水飛沫のように散開した敵兵たちはまるで蒸発して天に帰るように後陣へと退かり、替わって気鋭の新参部隊が新たな豪雨が水面を叩きつけるように突撃してきた。そして散開し、休息を挟んでまた充実しては新たに突撃する。この循環運動を幾部隊かで分担協力して行い、際限なく我が防衛陣を決壊させるべく挑みかかってきた。そして、これとは別に敵方右翼に控えていたもう一匹の長蛇陣が黄濁した大河淀川に沿うように草叢の上を這い進んでいた。これが我が防衛陣の左翼の後方に回ろうとした時だった。ついに我が水面は破砕した。
「天王山の枝隊はいかがしておる」
我が周囲に侍す近習たちの顔はいずれ一片も覆い隠すことなき絶望に支配されていた。が、私はそのようなことをまったく意に介さないように怒鳴りつけた。
「天王山の枝隊はいかがしておる」
「殿、敗戦は必至にござりまする。ここは一旦勝龍寺城に引き下がり、体勢を立て直しましょう」
「殿」「殿」……いくつも聞こえて来たがまるでどうでも良かった。眼下に我が戦線の掲げる桔梗紋はもみくちゃにされ薙ぎ倒され、もはや戦陣として些かも機能していないことは誰の目にも明らかだった。
「天王山の枝隊はいかがしておる」
私は床几にどっしり坐したままひときわ大きく咆哮した。が、
「殿、退(ひ)いてくだされ」
最早悲鳴に近い怒号と共に私は草叢の上を後方へと引き摺られていった。私はまだ怒鳴り散らしていたが、今となってもあの時何を天に向かって吠えていたのか思い出せない。